みその歴史(戦国時代〜江戸)

戦国時代には、戦の勝敗を左右する兵糧(戦陣食)として戦国武将たちは米と並んで、みそに大きな関心を持っていました。長野は現在でもみその主要な産地として知られていますが、信濃国にみそづくりが普及したのは武田信玄が行軍用につくらせたみそ「川中島溜り」以来とされています。また、伊達政宗は軍用みそを他に頼らずに自給しようと考え、城下に日本初のみそ工場である「御塩噌蔵」を建設しました。みその携帯は、干すか焼くかしてみそ玉にしたものを他の食料と一緒に竹の皮や手拭いで包み、腰に下げるのが一般的だったようです。

平均寿命が37、38歳の時代に75歳と長寿だった徳川家康。葉菜5種、根菜3種が入ったみそ汁を食べていたようで、代々の将軍も家訓を守り食膳にみそ汁を欠かさなかったとか。江戸時代になるとみそはなくてはならない食品として、生活に浸透。元禄期の江戸は人口が50万人を超え、江戸と近郊の生産量ではまかなえなくなり、みそが三河や仙台から運ばれ、みそ屋が大繁盛します。みそを題材にした落語や川柳がつくられたり、多くの料理書が刊行されてみそ料理がますます洗練されたりと、みそ文化が花開いた時代です。

兵たちの貴重なたんぱく源、みそ玉

兵たちの貴重なたんぱく源、みそ玉